妻籠宿
妻籠

杉林に囲まれた山中に残された宿場町の景観

妻籠宿は、旧中山道のお江戸日本橋から数えて42番目の宿場で、長野県木曽谷の西端に位置しています。1968年に長野県の「明治百年記念事業」の一つとして妻籠宿保存事業が実施され、街並みが整備されました。住民が「売らない・貸さない・壊さない」の住民憲章を守り、1976年には、「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。この江戸時代から変わらない宿場町の風景は、地元の方々の努力によって現在にもたらされています。
妻籠宿の寺下地区は、最も江戸時代の面影を残す地区で、18世紀から19世紀に建造された建物も残り上嵯峨屋や下嵯峨屋など一部の建物が公開されています。妻籠宿を紹介する写真によく登場するのも、この地区です。この町並みを目にすると、誰もが遠い江戸時代への想像をかきたてられることでしょう。

本陣

本陣

妻籠宿本陣と脇本陣及び歴史資料館は、南木曽町博物館として整備されています。本陣は、1995年に残っていた間取り図を元に復元されたものです。また、脇本陣は1877年(明治10年)に新たに建て替えられたものです。いずれも江戸時代に建築されたものではありませんが、一見の価値はあります。本陣は江戸幕府により維持されてきましたが、当主をを勤めていた島崎家は明治に入ると後ろ盾がなくなり急速に衰退し、建物は取り壊されました。一方脇本陣は、副業が認められていたため江戸時代から酒造業を営んでおり、元御料林の伐木が解禁されると、豊富な財力を背景に、2階建ての現在の家屋への建て替えを実施しました。こちらは、重要文化財の指定を受けています。このような時代の皮肉が見て取れます。
妻籠宿本陣も馬籠宿本陣も島崎家が当主を勤めていましたが、島崎藤村は、馬籠宿の最後の当主正樹の末っ子で、母は妻籠宿本陣から嫁いできました。藤村の2番目の兄広助は、妻籠宿本陣へ婿養子に出て最後の当主となりました。広助は、1899年(明治32年)には、東京に引っ越し、木曽の官有林と民有林の境界見直しについて官民の調停をしたとのことです。木曽の木材は、江戸時代には厳重に管理され、盗木には厳罰が課されていました。明治以降も価値が高く、官民の間で争議が絶えなかったようです。

脇本陣の庭

脇本陣の庭

脇本陣の建物は、明治時代に入って伐木が解禁された木曽の檜がふんだんに使用され、囲炉裏の炭にいぶされ更に磨かれて黒光りした柱や梁が目を引きます。心地よい炭の匂いも感じ取れます。みずみずしい苔と石灯篭が美しい庭も趣があります。職員の方から、歴史や建物の構造について丁寧に説明を受けることができます。島崎藤村の幼馴染で初恋の相手と言われる”おゆふ”さんは、この脇本陣林家に嫁ぎました。島崎藤村直筆の若菜集の一節の墨書が掲示されていますが、「おゆふさん」の息子から懇願されて林家に贈られたものだといいます。1863年の「七卿落ち」で長州に逃れた尊王攘夷派公卿の1人である東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)の書も掲示されていました。
脇本陣の裏手からは、歴史資料館に直接入場できるようになっています。こちらは妻籠宿保存の経緯がパネルで示され、江戸時代の平面図を参考に制作したミニチュアの脇本陣や木曽の民俗に関する遺品が展示されていました。順路どおりに進むと直接中山道に面した出口がありました。
復元された本陣の入口には大名の籠がそのまま載せられる式台と風雨を防ぐ大きな軒が目立ちます。建物内に古文書や島崎家関連の展示があります。1968年から始まった「妻籠宿文化文政風俗絵巻之行列」という毎年11月に行われるイベントにあわせ、地元住民により発行されてきた過去の「かわら版」が特別展示されていました。瓦版とは言っても記事はその当時のリアルタイムのものです。「妻籠宿文化文政風俗絵巻之行列」は、毎年11月23日の勤労感謝の日に行われる観光客向けのイベントで、多くの人で賑わいます。

妻籠宿へのアプローチ

JR中央線南木曽駅からバスかクルマでアプローチします。大規模な有料駐車場があります。

特記事項

馬籠宿までの峠越えの旧道ハイキングは、馬籠宿の項を参照ください。

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